真実を見つけて


ある日突然、何の接点も無かった男から助けを求められた。

「そこのお前!俺を匿え!」

そいつは本校舎と呼ばれる校舎と別棟と呼ばれる東校舎とを繋ぐ、三階に設けられた唯一の渡り廊下の鎖と鍵付の扉をどういうわけか突破して現れた。
この渡り廊下は教師でさえも通行禁止となっている、あちら側とこちら側を見えない壁の如く隔てる不可侵の場所では無かっただろうか。

「おい、聞いてんのか!それともその耳は飾りか?」

そして、その不可侵を破って東校舎へと足を踏み入れた男は端正な顔をしかめると唖然とする東校舎の生徒達を無視して、その場にいる人間の中でも特別そうな男へと言葉を投げつけた。

「くっ…ははは…!いや、誰だか知らねぇがおもしれぇことしてくれんじゃねぇか」

声を掛けられた東校舎の男、九鬼 恭四郎(くき きょうしろう)は男の偉そうな態度にも構うこと無く笑い声を上げると興味深そうに目の前の男を上から下まで眺めた。
制服は自分達と僅かばかり違う、袖や襟に金のラインが入った黒のブレザー。ネクタイの色は紺色で、三年である九鬼から見て一つ下の色だ。とはいえ、東校舎の生徒達はそのほとんどが公式行事でもない限りネクタイを着けたりしない。
余裕そうな態度で自分を観察してくる九鬼に男の方が舌打ちを一つ。

「こっちは何一つ面白くねぇんだよ。早く案内しろ」

「あぁ…匿えって?本気か?」

何からと、九鬼が問い質す前に本校舎の方から甲高い叫び声が上がる。その声は扉越しであっても良く通る声であった。

「あーっ!いけないんだぞ、ツカサ!そっちは野蛮人達がいっぱいいるから行っちゃ行けないってカナタが言ってたぞ!」

危ないから早く戻って来い!と、扉の横に設置されている窓から可憐な見た目とは裏腹に大きな声が言う。自分が酷い物言いをしているとは自覚が無いのかその言葉を耳にした東校舎の生徒達は見知らぬその声の主へと反発心を覚えた。

「へぇ、言ってくれるじゃねぇか。俺達に喧嘩を売る度胸がある奴が本校舎にいたとはな」

そして、例外無く東校舎の生徒である九鬼もまた聞き捨てならない台詞に双眸を鋭くさせ、本校舎の渡り廊下を睨む。だが、九鬼が行動を起こす前に本校舎から来た男が動いた。
渡り廊下を繋ぐ扉にしっかりと鍵を掛け、こちら側に侵入できないようにすると扉の横に設置されていた窓を開けて言い返す。

「うるせぇ!お前に指図される覚えはねぇんだよ!だいたい、お前よりこいつらの方が大人しくて何百倍も可愛いわ!」

「なに言ってんだよ、ツカサ!俺より可愛い奴がいるわけないだろ!そんなに照れなくてもいいんだぞ!」

「ちっ…相変わらず話の通じねぇ奴だな。とにかく今後一切俺に近付くな!」

授業も東校舎で受けると馬鹿どもには言っておけ!と一方的に告げて男は窓をピシャリと閉めた。その後も本校舎の方からは危ないだの、帰って来いと煩く喚く声が聞こえたが男は全てを無視した。

「あー…、それで一体何なんだ?」

喚く本校舎の生徒からは野蛮人だと罵られたが、目の前の男は言うに事欠いて東校舎の生徒達を大人しくて可愛いなどと、全くもって不似合いな評価を付けている。野蛮人は酷いが、可愛いなどと言われるような人間は東校舎にはいない。
例え居たとしてもそれは可愛いの前に馬鹿が付く。馬鹿で可愛い。そんな成績不振の生徒や素行不良のいわゆる問題児が詰め込められた校舎を本校舎と分けて東校舎と言うのである。
怒気の削がれた九鬼の疑問の声に男が振り返る。

「アイツは自分に都合の良い耳しか持たねぇストーカーだ。あいつらはあぁいうのが好みらしいが、俺にはその気が知れねぇ」

吐き捨てるように告げた男の顔には僅かばかり疲れの色が見えたような気がした。それも一瞬、男は九鬼と視線を合わせると不遜な態度を取り戻して言う。

「とにかく、さっさとこの場から離れるぞ」

「そりゃ構わねぇが、お前昼飯は食ったのか?」

今はちょうど昼休みだ。
それを利用してこの男も本校舎から脱出して来たのだろう。
九鬼の問い掛けに男は瞳を細めると、僅かに間を開けてから独り言を呟くようにポロっと言葉を落とした。

「今日は飲み物しか口にしてねぇな…」

「おい」

思わず九鬼の声音が低いものになる。
それを咎められたと受け取ったのか、男の口から続きの言葉が発せられた。

「しかたねぇだろ。あんなストーカー擬きに周りをうろちょろされて落ち着けるかってんだ。書類も溜まる一方で、飯を作って食う時間すら惜しかったんだ」

「作る?…あ。もしかしてお前、自分で料理するのか?」

本校舎から来た男の意外な台詞に九鬼は目を丸くして、再度目の前の男をまじまじと見つめた。
本校舎には東校舎より立派な食堂があり、九鬼の目の前に立つこの顔立ちもスタイルもモデルの如く整っている男ならば、自分で料理せずとも他の生徒達から貢がれていたり、それこそ食事を含めた様々な誘いを受けていそうなものだが。
九鬼の表情から言いたい事を察したのか、男はその理知的な光と意思の強さを滲ませた黒の双眸を細め、嫌そうに顔をしかめた。

「自衛の為には自炊が一番だ」

「そうか…」

何だか初対面の人間を相手に聞いてはいけない話題に触れてしまったかと、九鬼は目の前の男に悟られぬ様に周囲へと目配せをしてから、それなら食堂より購買に案内するぜと足を踏み出した。

それから一時間後…
九鬼は自分の肩にもたれ掛かって眠る男にちらりと目を向けた。
ちなみに九鬼が現在居る場所は当たり前ながら東校舎であり、三年の教室であった。
あの後、購買でおにぎり数個と紙パックのジュースを買った男は本気で東校舎で午後からの授業を受けるつもりらしく、どんなクラスでも構わないから教室へ連れて行けと九鬼に言ってきた。男はネクタイの色からして二年だったが、特に学年の指定もなかったので九鬼はその点を敢えて無視して、むしろ面白がって自分が所属する三年の教室に連れて行った。
また男も男で、九鬼に連れられるままクラスの確認もせずに教室に入ると、九鬼によって用意された九鬼の隣の席へと何の疑いも持たずに座った。
その時点で教室で昼休みを過ごしていた生徒達からかなりの注目を集めていたのだが、普段から人に視線を向けられる生活を送っていた男にとってはいつものことで取り合うこともなく、無意識に発動していたスルースキルによって視界にすら入っていなかった。
残り少なくなった昼休みで買ってきたおにぎりを完食し、男は小さな欠伸を漏らす。
それでも何の意地なのか午後の授業を受けようと出そうになる欠伸を噛み殺して頑張っていた。
当然ながら教科書やノートが無い男に九鬼は机同士をくっ付けて見せてやっていた。
三年の授業は受けた事がないはずなのに、男は九鬼が開いた教科書を見ても何の反応も無かった。
さすがにこれはおかしいと九鬼が隣に目を向けた所で隣にあった頭がふらふらと揺れて自分の方へと倒れかかってきた。

「なるほど…」

男はどうやら睡魔に勝てなかったらしい。
昼を食べて眠くなったのもあるだろうが、一瞬隠しきれなかった疲れのせいだろう。
九鬼は一度だけ、己の肩にもたれ掛かって小さな寝息を立て始めた男の頭をさらりと撫でた。

よほど疲れているのか、それとも良く眠れていなかったのか授業が終わっても男が起きる気配はなかった。
九鬼がどうするかと男に肩を貸したまま悩んでいれば、静かに教室に入って来た一人の生徒が九鬼の元へと近付いて来る。

「そのままで」

動作と同じく静かな声で九鬼が動くのを制した生徒はちらりと九鬼にもたれ掛かったまま眠る男に目を向けて、何かを確認する様に一つ頷いてから再び口を開く。

「神谷 司。二年S組。親衛隊有り。ただし非公認」

この男の容姿からして親衛隊があることは別段驚くようなことではない。だが、逆に非公認と付くという事はこの男は親衛隊の様な存在を嫌っているのだろうか?現に良く分からないが、ストーカーとか言う生徒に追われていた様であったし。

「それと、本校舎側で喚き散らしていた生徒の方ですが。どうやら彼は本校舎の方に新しく編入してきた生徒の様です。一般生徒達からの目撃情報ではその編入生が彼、神谷 司にまとわりついて迷惑をかけているとか」

「ただし、もう一方の役職持ちや本校舎でのランキング上位陣、有名生徒達の間では神谷 司の方が編入生を連れ回しているなど、意見の食い違いが生じています」

「へぇ…」

自分にもたれ掛かる男、神谷 司を起こさぬ様に口許だけを歪めて笑った九鬼は報告を持って来た生徒へ向けて面白がるよう眼差しを向けた。

お前はどちらを信じる?

「自分も貴方も、あの場にいた東校舎の人間は皆自分の目で見たものしか信じないでしょう」

その答えが正解だと言うように満足気に笑った九鬼が、そろそろ当事者である司を起こしてやるかと、その肩に手を掛けようとした所で、まだ続きのあった報告にその手を止めることになる。

「それから、老朽化が進んでいた東寮の一部改修、食堂の改装など東校舎の人間にも恩恵をもたらした神谷 司は本校舎の生徒達の方が優れていると思い込んでいる本校舎至上主義の役職持ち達から少なからず反感を抱かれていた様です」

「は?……誰が、何だって?」

東校舎の生徒達が入寮している、東寮。
いつの間にか工事が入り、一部改修された寮に、薄暗かったイメージから一転明るく清潔感に溢れ、暖かみのある場に変貌した食堂。
それらは九鬼にとっても身近で起きた出来事だ。むしろ、東校舎の生徒達にとって一大事と言っても良い程の出来事だったのだ。
これまで何度も本校舎に申請を出していた案件であり、本校舎からは何かと言い訳を付けて毎回却下されてきた案件でもあった。
それが何故か今年に入ってすんなりと受理され、予算も回された。あっという間に綺麗になった東寮と食堂に喜ばない東校舎の人間はいなかった。

「彼、神谷 司は本校舎において最高権力を有する役職持ちーー生徒会会長です」

「まじか…!」

「ん…ぅ、なんだ?うるさいぞ…」

驚いて肩を揺らした九鬼に意識が揺り起こされたのか、司がうっすらと目を開けてもごもごと口を動かす。司は自分が九鬼に寄り掛かっていることを認識していないのか、二人が口を閉ざせば、司は再び静かになったことで瞼を落とす。

「その話、本当か鈴鹿」

「はい」

細心の注意を払って小声で口を開いた九鬼に鈴鹿と呼ばれた生徒がはっきりと頷く。
だとしたら、この男をあのストーカー野郎などに絶対に渡すわけにはいかない。
東校舎の恩人である神谷 司は何がなんでも守らねばならない。

「東校舎の人間全員に通達を出せ」

本校舎からの客人、神谷 司には手出し厳禁。もし困っていたら必ず助けること。また、本校舎の人間は誰一人入れるな。

「さてと、こいつをどうしたもんか」







「ん、ぅ……ん…?」

何だかここ最近で一番良く眠れた様な感じがして、その心地良さにとろとろと目を開ければ、目の前には健康的な色をした人肌に、きらりと光るシルバーのネックレス。着崩されたワイシャツの隙間からそれらは視界に飛び込んで来た。

「っ、何だ!?」

それが何か、いや何者かだと認識した瞬間、司は身を強張らせて、勢いよく飛び起きた。

「あー…ようやく目が覚めたか」

微睡んでいた脳をフル回転させて、どくどくと嫌に早鐘を打つ心臓を押さえれば目の前の男がのんびりとした口調で言う。男は司の隣で横たえていた身を起こすとそのままベッドの上で司と向き合った。

「お前は…」

「覚えてねぇのか?お前が東校舎に来て、御指名した九鬼 恭四郎だ」

「…そいつが何で俺と一緒のベッドに入ってやがる。俺は確か授業を受けて」

司は自分の記憶を掘り起こす様に口にしたが、その先が続かない。それはそうだろうと、九鬼が司の言葉を引き取って繋ぐ。

「まぁ、余程疲れてたんだろ。お前は授業の途中、って言うかほぼ最初から寝落ちしてたぜ」

で、授業が終わっても起きねぇお前を心配して、一応保健室に連れて来たわけだ。

その説明に九鬼から視線を離して、ぐるりと周囲を見渡せば、確かにここは個人の部屋では無く、クリーム色のカーテンで仕切りのなされた保健室のベッドの上であった。

「それは納得してやるが、何でお前までベッドに入る必要があるんだ」

「そりゃお前が気持ち良さそうに寝てるのが悪い。俺まで眠くなっちまったんだからしょうがねぇだろ」

「人のせいにするな」

俺の心臓に悪いと言って、司は九鬼を睨み付けた。
しかし、九鬼にはまったく悪びれた様子もなく、さらりととんでもない事を口にしてくる。

「無防備なお前を一人にさせられねぇだろ。だったら、ここでベッドの中に引き込んで俺の男だって周囲に思わせときゃ、お前の身も守れる。一石二鳥だ」

「意味がわからん」

「後は単純にベッドがここしか空いてなかったからだ」

で、この後はどうする?とうに授業もホームルームも終わってるし、後は寮に帰るだけだ。その前に行きたい所とかあるかと九鬼に聞かれて、司はとりあえず寮に案内しろと言って九鬼と共に保健室を後にする。

「今のって、九鬼さんだよな?保健室から出て来たぞ」

「しかも上機嫌で。じゃぁ、隣にいた男が例の会長で…九鬼先輩の」

まさか、東校舎の保健室が別名カップル部屋と呼ばれている事など本校舎から来た司は当然知らず。また、保健室へと二人で入って、出て来ただけで恋人同士だのと噂が流れる事になるなんてこの時、司は知る由もなかった。
九鬼の一石二鳥発言を追及しなかった事を司が後で後悔することになるかはまた別の話。

 





「悪いがうちの寮にはゲストルームみたいな立派な部屋はないんでな」

九鬼の案内で初めて東寮に足を踏み入れた司は寮のロビーに入ってから、時折ちらりと東寮の内部をチェックする様に視線を走らせていた。東寮にいる生徒達は何故か二人を遠巻きに眺めるだけで、本校舎の生徒達の様に近寄っては来ない。
エレベータに乗って、七階で降りた九鬼に付いて行けば、そう前置きをされてから目の前の扉の鍵が外される。

「ここがお前の部屋か」

七階のエレベータを降りて、程近く。【3A】とプレートの填め込まれた玄関扉を開けて、電気を付けた九鬼に司が確認する様に声を掛ける。

「そ。お前の部屋より狭くて汚いかも知れねぇが、寝る所があるだけ十分だろ」

玄関で靴を脱いで、部屋の中へと通された司は九鬼の卑下する様な発言に首を傾げた。

「別に狭くも汚くもねぇし、無駄に広いだけの俺の部屋より住み心地は良さそうじゃねぇか」

見た目お洒落で華やかな使いづらい家具や寝具が置かれている自室より、九鬼の部屋にあるいかにも実用的で使い古した感のあるテーブルやソファ、棚などのインテリアの方が生活感もあり、温かみがある。司としてはこちらの方が自分の好みであった。

「そうか?変わってるな、お前」

司の意外な感想に九鬼は目を丸くして呟く。

「あぁ…こういう部屋の方が帰って来た時に気を抜けそうだ」

そう言って司はさっそくリビングに置かれたソファに足を向けると、ソファに腰を下ろして、ソファの上に転がっていた柔らかなビーズクッションを胸に抱く。

「はー…触り心地良いな、このクッション」

「…それなら寝室にもう一個あるぜ。持ってきてやる」

ほらと色違いのビーズクッションを九鬼から投げ渡された司は二つのクッションを腕に抱えたまま、ローテーブルを間に挟んで向かいのソファに座った九鬼と対面する。

「なに可愛い事してくれてんだ、お前は…」

正面から注がれる生ぬるい視線を司は持ち前のスルースキルで無視をして、気付かなかったことにした。
そのうち九鬼の方が、コホンとわざとらしく咳払いをして、話し始める。

「で、俺は言われた通りお前を匿う事にしたわけだが。いつまで匿えばいいんだ?」

「最低でも一週間。風紀の連中があのストーカー野郎とその取り巻きを何とかするまでだ」

「あ?本校舎の風紀は信用できるのか?」

本校舎至上主義の役職持ちから、東校舎に恩恵を齎した司は反感を抱かれているのではないか。
司が眠っている間に受けた報告を思い出して問い返せば、司は九鬼の疑問を打ち消す様にきっぱりとした声で答える。

「風紀は信用できる。正直、風紀委員長の奴とは馬が合わねぇが、学園運営での意見は一致している」

東校舎への鍵を用意したのも、あのいけすかねぇ風紀委員長だ。

「へぇ…だったらそいつに匿ってもらいや良かったじゃねぇか。わざわざこんな所に来なくたって」

「冗談じゃねぇ。これ以上借りだって作りたくねぇ。それは奴だって同じはずだ」

「借りがあるのか?」

「不本意な事にな。ストーカー野郎の取り巻きに加わって馬鹿騒ぎを起こしてる連中は知らない顔じゃない」

司の口から直接その立場を教えられてはいないが、馬鹿騒ぎを起こしている連中というのが生徒会役員達の事を指しているのは間違いないだろう。

「けど、風紀の奴も俺に借りがある。あのストーカー野郎を野放しにした。止めきれずに俺の所まで接触を許した。でかい借りがな」

それを今、返させている最中だと司は不敵に笑う。

「それで互いにチャラだ」

よほどその風紀委員長とやらと相性が良くないのか、司の口元は笑っていたが、その目は笑っていなかった。

「何となくだが、お前の事情は分かった。が、それにしたってうちに単身で乗り込んでくるのは、ちょっと無謀だと思わなかったのか」

東校舎の悪い噂が耳に入らぬほど遠い立場に居たわけじゃないだろう。むしろ、良く聞こえる場所に居たはずだ。
司のとった軽率な行動を注意する様に言えば、何故か司は呆れた表情を浮かべて九鬼を見つめ返してきた。

「どこの誰とも知らぬ俺を自分の部屋まで上げたお前がそれを言うのか?」

「…そういやまだお前の口から名前を聞いてなかったな」

配下の生徒から報告を受けたが。九鬼は素知らぬ振りで改めて司自身の口から自己紹介を受ける。

「神谷 司だ。この借りは必ず返す。しばらく厄介になる」

「別に返さなくても良いぜ。お前にはもう恩がある」

「…何のことだ?今日が初対面だろう?」

「ま、分からねぇならそれで良いさ」

恩と言われて眉を寄せた司に九鬼は笑って流す。
司にとって東校舎に与えた影響は特別、恩を売るような事ではなかったのだろう。きっと司にとっては生徒会長として当たり前の行為で、東校舎の生徒達にとっては当たり前じゃなかった、それだけの話。

「司、腹は減ってるか?」

「…少し」

「じゃぁ、少し早いが食堂にでも行ってみるか?それとも購買か、自分で何か作るか?」

九鬼の言葉に司はじっと考えてから口を開く。

「一度、食堂をみておきてぇな」

「了解。食堂な」

 

東寮の食堂はエレベータを降りて一階奥にあり、食堂の手前に購買がある。
九鬼と共に食堂に入った司はちらほらと視線を向けられることはあったが、ここでもまた本校舎の生徒達の様にきゃぁきゃぁと騒がれることもなく、僅かにほっと息を吐いた。

食堂のシステムは本寮と同じ仕組みで、食券を買うか、席に着いてウエイターを呼ぶかであった。しかし、東寮の生徒の大半は自分で食券を買って、受取カウンターで料理の乗ったトレイを受け取っているようだ。ウエイターが当たり前の様に食堂で待機している本寮とはだいぶ印象が違う。とはいえ、司自身は滅多にいない自炊派なので、その様子を珍しく思えども、本寮の人間達が見たらおかしいと言う感覚はなかった。
特に疑問を持たない司の様子に九鬼は一つ良い事を教えてやると、料理を受取るカウンター口を指さして、司の耳元で内緒話をするように囁く。

「飯を大盛にして欲しければ、料理を受取る時に言えば大盛にしてくれるし、逆に減らして欲しければ減らしてくれる。更に相手の機嫌が良い時はおまけで何かを付けてくれる時もある」

まぁロシアンルーレットみたいな時もあるが、おおむね好評のこの寮にある名物の一つだ。

「ありなのかそれは」

「お前も一度使ってみれば分かる」

呆れた様子で、でも僅かばかり興味の惹かれた瞳で受取カウンターの方を眺める司に九鬼はひっそりと笑う。
そうして働きやすい食堂にリニューアルしてくれた司のことは既に食堂内で働く人々にも伝わっている頃であろう。

「何にするか迷うな」

食券機の前に立った司が悩ましげに呟く。
牛丼、カツ丼、ステーキにすき焼き、唐揚げ、コロッケ、ハンバーグにと…見事に肉メインの料理に迷う司に横から手を伸ばした九鬼が勝手に司のメニューを決定する様にボタンを押す。

「とりあえず今、肉は止めとけ。胃にくるぞ」

昼におにぎりを食べたとはいえ、飲み物しか口にしていなかった司の現状を考えるに、司に自覚は無くとも身体は疲れているはずだ。そう心配して九鬼は言う。

「あ、勝手に押すんじゃねぇよ」

食券機の取り出し口から出てきた引換券を取り出しながら司は文句を口にする。そして、目を落とした券には白身魚のフライ定食と印字されていた。

「まぁ、魚も嫌いじゃねぇけど。……ここなら大丈夫か」

最後に呟くように付け足された独り言を気にしつつ、九鬼は野菜も食えよと言いながら自分も司と同じものを押す。

食券を手に二人は食堂の受付カウンターに移動した。

「おや、見ない顔だね?」

カウンターの中にいた年配の女性が九鬼の隣に立つ司の顔を見て言う。

「あー、こいつが今日うちに来た新人」

「おいっ、新人ってなんだ」

「いいんだよ。それで通じるから」

新人と言う呼ばれ方がお気に召さなかったのか、眉をしかめた司とは対照的に年配の女性の方はまぁっ!と嬉しそうに声を上げる。

「それじゃぁ、おまけにデザートをつけちゃうわ!甘いのは平気かしら?」

「だってよ、司。良かったな」

「は…ぁ?」

白身魚のフライに千切りにされたシャキシャキのキャベツ、白いご飯に味噌汁。ほうれん草のお浸しが付いて、司の受け取ったトレイには更に苺のショートケーキが乗せられた。九鬼には何故か、頑張りなさいよと言う言葉と共にモンブランがおまけとして出された。

「ここは随分と気前が良いな」

司の視線はショートケーキの上できらきらと輝きを放つ大粒の苺を見つめている。

「モンブランも食うか?」

「いや、いい。それは彼女からお前への厚意でくれたものだ」

二人は受け取りカウンター近くのテーブル席に、向かい合う形で腰を下ろして食事を始めた。
司はやはり育ちが良いのか、普段東校舎の生徒達が食堂で働く年配の女性達の事を食堂のおばちゃんと呼ぶのに対して、司は自然と女性に不快感を与えない様に彼女と口にした。
ただでさえ注目を集めていた司は、その些細な対応の違いだけで、更に食堂で働く職員達の心を知らず掴んでいた。

「ん。美味いな」

「だろ?……お前は何か警戒してたみてぇだけど、ここの料理はどれも美味いぜ」

ご飯を食べながら自慢する様に言い切った九鬼に司は箸を止め、僅かに目を丸くすると、溜め息を吐くように言葉を落とした。

「あぁ…違う。そうじゃねぇ」

嫌な事を思い出したかの様に顔をしかめた司の様子に九鬼はふと最初に聞いた自炊の時の話を思い出す。あの時も司はこんな顔をしていた。

「お前には暫く厄介になるから教えるが…」

一段と声を潜めた司に九鬼は嫌なら無理に話す必要はねぇぞと先に言っておく。だが、司の意志は変わらないのか話は続けられた。

「前に一度、料理に薬を盛られたことがある」

「なっー、犯罪だろ、それ」

「もちろん主導した生徒諸とも食堂で働いていた給侍係も学園から追放してやった」

こんな話が広まれば学園の恥だ。だから、表向きには生徒の自主退学と給侍係の依願退職で済ませた。

「お前、それ、大丈夫だったのか?」

東校舎の内情より、手が込んでいる分、本校舎の方が恐ろしい。
こちらの生徒は殴り合いの喧嘩や遅刻、早退、喫煙、サボりなど、ごく稀に行き過ぎた恋が強姦未遂を起こすこともあるが、そこはやはり腕っぷしがものを言う一対一だ。

「…当然だ。じゃなきゃ俺はここにはいねぇ」

強い眼差しで返されたが、その言葉の半分が嘘であると何故か九鬼には分かってしまった。
だってそうだろう?司はまた同じことが起きることを恐れて自炊している様だし。自衛だと言葉を言い換えているようだが。これだと食堂にも寄り付かないようにしているようだ。何より先程、食券を選びながらも警戒心を隠せていなかった。確実にその出来事が司の中に、心の傷として残っている。本人にその自覚があるのかまでは分からないが。

九鬼は向けられた強い眼差しに、双眸を細めると、そうだなと余計な事は一切口にせず肯定の言葉だけを返した。



部屋に戻り、一番風呂を客人である司に譲ってやった九鬼はその間リビングのソファに身を沈めてスマホを弄っていた。

「本校の風紀は頼りなさそうだからな」

少しばかり東校舎の生徒だとバレぬように協力してやれ。それと東校舎上階にある自治会室、本校舎で言う生徒会・風紀委員会を合わせたような東校舎特有の組織が使用している部屋。そこを司の為に開放してやる。司不在で向こうの生徒会業務がどうなっているのか知らないが、司の事だから先に全てを処理してきたのかも知れないが、一応仕事場として必要であろう。それ以外にも一人になりたい時に使えるし、司のいる間は自治会室には余程の用が無い限り、接近禁止にしておくか。

自治会のメンバーへとその旨を一斉送信すれば直ぐに了解の返事が続々と送られてくる。

『了解したが、神谷会長に差し入れも駄目だろうか?』
『自治会長様の甘い対応にビックリして、飲み物落とした。弁償しろ!』
『俺は何も見ないし、聞かないんで、どうぞ存分にお使い下さい』

中には変な返信もまじっていて、九鬼は眉を寄せた。

「こいつら…」

人をおちょくってんのか、純粋に何かを勘違いしているメンバーもいる。
暫くスマホを片手に難しい顔をして、やり取りを続けた九鬼はリビングの扉が開く音に気付き、スマホから視線を上げるとそちらを向いて声を掛けた。

「どうだ?服、大丈夫そうか」

「む。…問題はねぇ、と言いたいとこだが。何で少し裾が余るんだ」

俺とお前、体格にそんな差はねぇだろと司は自分の手や腕、身体を見下ろし、九鬼を見る。
着の身着のままで来た司に九鬼が自分の部屋着を貸した結果だ。

「着れるなら良いじゃねぇか。俺は風呂に入って来る。お前は自分の部屋だと思って寛いでろ」

飲み物も好きに飲めと、九鬼は司の不満にはあえて触れずに、スマホをテーブルの上に置くとソファから立ち上がった。

「あぁ、そうだ司」

「何だ?」

「もし寝るならベッドを使え」

「は?それだとお前が…」

「気にすんな。俺はソファでも寝れる。いいな?」

勝手に言うだけ言って九鬼はリビングを出て行く。
その後ろ姿に司は困惑を隠せずにいた。

「どこまでお人好しなんだお前は」

それに無防備にもテーブルの上に情報の塊とも言えるスマホをぽんと置いて行ってしまった。自分の部屋だからという意識のせいにしろ、目の前に他人である司がいる今、危ないとは思わないのだろうか。自分には到底真似できないことだ。

「調子狂うな…」

司はポツリと置かれたスマホから目を離して、水を貰いにキッチンへと向かった。
 

風呂から上がった九鬼がリビングへと顔を出せば、案の定と言うか、司はソファに横になって寝息を立てていた。しかもその腕の中にはビーズクッションが二つ抱き締められている。余程気に入ったのか。

「ま、そんな予感はしてたぜ」

司は強引に見えて常識人だ。家主のベッドを占領するのは気が引けたのだろう。
九鬼はしょうがねぇなと口元を緩めつつ息を吐くと、クッションを抱いて眠る司をそのまま横抱きに抱き上げる。

「ん。やっぱ、軽いな」

司は見た目に反して軽い。保健室に運んだ時もそうだが、ここ最近で体重が落ちているのではないだろうか。先程の服の件もしかり。痩せたことで肩が落ちて、裾が余ったのかもしれない。

九鬼は司を自分のベッドがある寝室まで運ぶと、丁寧にその身体をベッドの上に下ろし、布団を掛けてやる。

「顔色は良いが、身体の方はまだ戻ってねぇんだな」

ぐっすりと深い眠りに入っている司の頬に手を滑らせて九鬼はくつりと微かに吐息を零して笑う。

「お前曰く俺達東校舎の人間は大人しくて可愛いらしいからな…」

ゆっくり休めよと頬に滑らせた指先で唇に触れて離れる。
九鬼は己のベッドを司に譲り、自分はリビングのソファで眠った。



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